人の心は傷つきやすいものです。
と、始めにこのような文が、しっかりと心を象徴させているように思えた、この「人の心」を読んで、今まで、何気なしに思っていた、心の中に、本当に悲しい心というものを知りました。
この文の中では、今、問題となっている、「いじめ」の出来事が、書かれてありました。
ぼくも、このような、体験を実は、していたのです。あれは、小学校の時でした。ある一人の女の子が、ぼくのクラスにいました。
その女の子は、毎日のように、男子からも女子からも、バイキンあつかいされていました。
いわゆる、集団によって、弱い人をいじめる、人間として一番最低ないじめ方の一つです。
このことは、学級会を通じて、どうしたらなおるのかということを熱心になって、先生を中心として話したことも、ありました。
その時、学級委員であった、ぼくは、この「いじめ」について、学校を中心として、問題にとりくんでいけないだろうかなど、しんけんに考えてみた時もありました。
自分では、わかっていました。その女の子のつらい気持ちは。
でも、自分が、かばってあげたり、その子の気持ちをみんなに、伝えて上げたりすることが、できなかったんです。
自分までもが、みんなから、きらわれてしまうと思ったからです.
しかし、今、考えてみると、どうして、あの時、自分から、「もう一度人の心について考えてみよう」この一言がいえなかったのでしょうか。
そのいじめられている女の子の前で、その一言がいえたならば、本当に、真の勇気、そして一つ、「希望」というものが、持てたにちがいありません。
人間の前途に横たわる、ああらゆる、困難を乗りこえるかは、自分自身の心にひそむ、「希望」です。
そうです。人間だれでも、長所は、あるはずです。
そんな、いい所は、いい所として、わかってあげる、この心は、本当に、人間として、生きていくこととして、必要なことなのです。
その女の子だって、自分から、進んで、人のいやがるような、仕事をやってがんばっていました。
こんな、やさしい心のある、女の子の気持ちを今、自分自身の心の中で考えてみると、本当に、人間を差別することは、人間として最低の行いであるということが、よくわかってきます。
今、小学校時代の日記を読み返しているとさまざまな心について、ぼくは、書き続けています。
そんな中に、「自分の心も、わかり、人の心も、人の心もわかれる人間になりたい。」
こんな事が、書かれてありました。
本当に人の気持ちをわかってあげる、人の気持ちがわかる、そんな事が少しでもわかった今、中学一年生のぼくにとっては、大きな収穫です。
人の長所をみつけず、うわべだけで、その人の、人格を決めてしまい、きらってしまったりする風潮が多分にあります。
その女の子は、自分自身では、みんなに、自分の心を伝えようと、努力していたに、ちがいありません。
しかし人の「心」を読みとることは、なかなか、むつかしい事です。みんなが、短所だけで決めてしまわずに、その女の子の良い所をもっと、みい出してあげるように、努力すれば、いいんです。
「自分自身の個性を生かし、努力することによって、心は、生まれてくるのだ。」
ぼくは、自分自身で考えた、この言葉が、一番好きです。
悪いことを悪いといえないのは、心の病気です。
だれでも、いい心はもっています。だれでも一生けん命、生きるために、がんばています。
人間、「心」があるからこそ、笑ったり、悲しんだり、うれしがったり、愛しあったりできるのです。
しかし、今になっても、その女の子は、中学校でも、いじめられ、しばしば、学校も、休むそうです。
どうやら、この「いじめ」という一つの大きな、問題は、まだまだ続きそうです。
しかし、もう一度、この「心」について、みんなが、真けんに話し合って、差別のない世界が生まれてくる事を望んでいます。
追記:これは、もうかなり前の話である。彼は一人っ子。小さいときから、主治医として彼を看てきた。中学生になり、学校に行きたくないといって、母親と一緒に来院した。
そのとき、その頃、自分の気持ちを素直に書いた作文が校内で入賞した。彼は、この作文を見てほしいと、綺麗な字で書かれた原稿用紙を携えてきた。最初の中は、お母さんの方がパニックになり、何故?自分の息子が学校に行きたくないのか?嘆き悲しむ毎日が続いた。彼とは本当に色々な経緯があったが・・・・、今は結婚し一児の良きパパとなった。年賀状で家族の近況報告があり、彼との絆はいまだにたもたれている。夫として、また、パパとして、素晴らしい家庭生活を送っている。肩肘を張らず、ゆっくり、のんびり行こうよ!心から応援してるよ。
